梅原・木ノ本地区の文化財を訪ねて~

2012.10.21 日曜日 晴れ  13:00~15:30  備忘録

第8回和歌山市語り部ウォーク「梅原・木ノ本の文化財巡りと木本八幡宮秋祭り」参加募集中、先着100名との知らせを受ける。選に漏れないようにと、友を誘い早々に申し込みを済ませる。

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梅原・木ノ本地区は、和歌山市の北西部に位置し、紀泉山脈の南西部の裾野に拡がる湿地帯や田畑が連なる農耕地であったと記憶する。時代が移り、昭和中期頃より住友金属工業が茨城県鹿島市に主力配転までの間、周辺一帯は繁栄著しき時代であり、それに伴い湿地帯や田畑は広範囲に埋め立てられ宅地・商業地化が急速に進められた。

和歌山市以外に住居を構えたことのない私である。だが、この地は知人宅を訪問するか、近くのテニスコートに立ち寄る以外は散策すること等は皆無であった・・・・・

天候良し、語り部さんの話しを聞いて、少しは物知りの仲間入りは叶うであろうとの期待を抱きつつ集合場所へと急ぐ。

12:40 受付場所となった和歌山市土入・市立温水プール前を十数人毎の班別となり、先頭の語り部さんに付いて出発。大規模店舗駐車場内を通り抜け中野城址(写真下)を目指す。


12:55 中野城址 現在は城跡らしき物は何も無し・・・・・

戦国時代には、雑賀一揆十ヶ郷の拠点として中野城が築かれていた。この地は、和泉の国に至る孝子越街道・和泉山脈の南を東西に通ずる淡島街道を押さえる要衝の地であった。

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信長は、敵対する摂津・石山本願寺攻めを行う、世に言う石山合戦である。抵抗激しく攻略出来ないのは本願寺をバックアップする雑賀一揆衆であると、天正5年(1577)2月紀州・雑賀攻略のため出陣する事となった。

信長軍は浜手・山手に分かれ、浜手は淡輪より孝子峠を越えた。その勢3万余、先鋒は明智光秀・細川藤孝であったという。

雑賀衆はこれを迎撃するも戦い利ならず中野城に撤退。城は最前線となり数万の敵と相対し4~5日の後に開城降伏。この後、平井城・御坊山(秋葉山)の攻防にも敗れた雑賀衆は信長の軍門に下る事となったという。

(写真下左) 市立貴志南小学校々地は中野城の中心部であったと思われる。発掘調査によって当時の銃弾が数多く出土したことで、此処での戦闘激しき事を物語るという。(写真右)大年川?上流で工事をしているのか濁り激しい流れである。

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13:14 大年(おおとし)神社

旧貴志の庄(栄谷・中・梅原・向・中野・土入)の産土神。天正13年(1585)の兵火の後、桑山重治によって慶長5年(1600)再興された。

境内には岩神と称される巨岩が有り。岩肌に、波に浸食された痕跡が残されている事から、古くは、この地は海であった事を知る。

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語り部さんの話では、この巨岩を擦すると肩凝りが治るとのこと。早速御利益を求める女性の姿を目にする。(写真下左)

椰の木に実がなっている(写真下右)
この葉を身に付けておくと「魔除け」・「男女の縁が切れない」等といわれる。熊野速玉神社では乾燥した種子を祈祷し厄除けのお守りとして販売されていた事を思い出す・・・・・・・

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13:26 李梅渓(1617~1682)の旧宅址

朝鮮の儒学者、李一恕(徳川頼宣の侍講)の子、徳川光貞の師となり学問を教える。徳川家の年譜編纂「徳川創業記」を30年を要して完成させる。その功により300石を賞与される。

梅原の地を藩主頼宣公より賜り、別荘を造り梅花を植えて梅渓と号した。現在、李梅渓の痕跡は、写真左に写る民家の敷地内に井戸が残るのみとなった。(写真下)生い茂る竹藪一帯を「梅渓屋敷」と称したという。

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13:32 旧家に見る築地塀・長屋門

豪華な長屋門・厚い土壁を巡らした旧家の佇まい(囲い造り)も時代と共に近代様式に代わり、周辺を見渡しても残る古民家の減少は荒ましく寂しい限りなり。とはいうものの現住者の利便性を尊重するのが先決かも・・・・・

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13:35 徳号寺 浄土真宗西本願寺末 

天正中期開基という。野辺送りの際に使用された民具(写真下右)等が今も残されている。

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13:45 釜山古墳 (史跡 県指定文化財)

和泉山脈の南麓裾野の平地に築かれた直径40m・高さ7、2mの大型円墳である。周辺部が若干改変されているが本来は直径45m程度と推定される。

明治時代の発掘調査で、鉄製の武器・武具類、ガラス製・滑石製小玉、円筒埴輪等出土している。墳丘上に2枚の板石が立っているが竪穴式石室或いは箱形石棺の蓋石と思われる。
・・・・・・・以上説明文による。

なお、墳丘表土は雑草に覆われ、蓋石を見ることが出来るか否かは知る由も無し。

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13:48 車駕之古址(しゃかのこし)古墳(史跡・和歌山県指定文化財)

1700年~1400年前にかけて築かれた前方後円墳、当時の大王・有力者が用いた墓の形という。発掘調査で埴輪やガラス玉が多数出土、なかでも金の勾玉が発見され全国的に有名となった。

金の勾玉の出土例は、我が国初、朝鮮半島の新羅の皇南(ふんなむ)大塚、伽耶(かや)の玉田(おくちょん)M4号墳などの2~3例に過ぎないという。

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公園全景(写真下) 現在は周濠・外堤などは見当たらないが、これらを含めた全体の長さは110m~120mにもなり、県内最大の古墳という。NPO法人・地域有志の努力により公園として永久保存される事となった。

将来的には、古墳の元の形が判るように復元整備することを目指しているという。   ・・・・・・和歌山市教育委員会発行小冊子より      写真上でクリック拡大して下さい。

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14:09 茶臼山古墳

車駕之古址古墳より西方90mに円墳と思われる茶臼山古墳が有って、前述の釜山古墳を含め木ノ本古墳群と呼ばれたそうです。築造時代は何れも5世紀から6世紀に掛けてという。

現在、茶臼山古墳は公園・宅地と化し古墳の痕跡は微塵もなし。(写真下)

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14:11 谷釜地蔵尊

古き代より、私達の祖先は石の信仰伝承を持ち、石は神仏の意思を表すものとして崇めてきた。石仏もその一つで、郷人と霊界を繋ぐ媒体であったという。

病気平癒・安産・厄払い・家内安全・家業繁盛などの願い事をしてきた。当祠内には十体の石仏と数個の自然石が祀られている。この自然石こそ石の信仰伝承の原点と思われる。                              ・・・・・・当日配布資料より抜粋

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14:20 船津山 西勝寺 真宗本願寺派(写真下左)。

もと北方大谷の麓に有り、真言宗の大寺坊であったが、文明11年時の住僧蓮如上人に帰依し改宗しこの地に道場を開く。慶長14年寺号を許される。・・・・・・和歌山市史による。

境内の小さな祠には阿弥陀如来の守り神、毘沙門天が祀られている。

14:26 高橋克己(1892~1925)農学博士の生家(写真下右)

明治25年2月、当地に7人兄弟の長男として生まれる。大正11年、帝国大学在学中から研究していたビタミンAをタラの肝油から抽出することに成功する。

この功績により、帝国学士院賞を受賞し賞金全額を母校の和歌山中学校に寄付された。ビタミンAは「理研ビタミン」の名で商品化され、夜盲症や結核に効能有り、当時栄養状態の悪かった日本人にとって大きな助けとなったという。

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14:41 有吉佐和子(1931~1984)の母の生家跡(写真下)

有吉佐和子の母の生家は「木本圭一郎」家で、大正・昭和にかけて県会議長を務めた。佐和子は昭和6年(1931)和歌山市に生まれ、父親の仕事の関係で幼少期を海外で過ごす。

その後、東京で過ごすも戦争で母の実家に疎開し、木ノ本小学校、和歌山高女(現桐蔭高校)に通う。当時の彼女は頭脳明晰・学力優秀、その才群を抜いていたという。

小説「紀ノ川」・「日高川」・「華岡清洲の母」・「複合汚染」・「恍惚の人」等因習にとらわれた女性や社会問題を描き問題提起する。しかし、直木賞・芥川賞の候補に終わり受賞する迄に至らなかった。

生家跡は更地・分譲住宅として再開発されて痕跡今は無し。せめて顕彰碑ぐらいは欲しいものです・・・・・・・・

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14:46 木本八幡宮秋祭り広場

例祭は10月14日・15日聖武天皇が玉津島行幸の際、当社で魚鳥を放って放生祭行ったとの伝えによるという。広場では、屋台が並び、時間ともなれば餅撒きや500有余年の伝統を誇る県指定無形文化財、木ノ本獅子舞を見ることが出来る。

獅子舞は高さ3間程の梯子を用いて、親獅子が子獅子を谷底に落とす様などの妙技を演ずるという。なお、演舞は10:00・13:00・16:00と告示されていて、待ち時間約1時間を惜しんで帰途につく・・・・・・・

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狭い道筋で、笛太鼓に合わせて獅子の演舞が行われていた。獅子舞を取り囲む子供達は、盛んに飴玉を投げ入れる。初めて見る光景であった。

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14:54 木本八幡宮

境内の林は、橿をはじめ照葉樹林の典型的な自然林で宗教的・学術的にも貴重な森林という。2千数百年前の神武天皇の代、八咫の鏡の姉妹品・日像(ひがた)の鏡をこの地の厳橿(いつかし)の木ノ本にお祀りしたことで「木本の宮」と称したのが当宮の始まりと伝えられている。

祭神は、応神天皇・神功皇后・天照大神、社伝によると、神功皇后が三韓遠征からの帰途、応神天皇が紀伊水門まで出迎えた。その時頓宮となったことに始まり、その後欽明天皇の命により八幡宮を造営したという。

天正13年(1585)秀吉の紀州攻めにより社殿等焼失、慶長8年(1603)仮神殿、元和4年(1618)新神殿を造営し現在に至る。

また元和4年には、山の下にあった芝原八幡宮を合祀している。芝原八幡宮は応神天皇の頓宮の古跡とされており、権殿が今に残る。

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地元の故事来歴に疎い私、案内頂いた折角の機会を無駄にしないようにと保存する。(保存場所は自身の脳裏)。語り部さんのお話や資料、現地案内板、手持ちの図書を駆使し自身の備忘録としてMEMOした拙きものとご理解下さい・・・・・・・・内容の誤り・誤字等判り次第訂正致しますが信頼薄きこととご容赦願います。


















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この記事へのコメント

  • 翔女

    語り部さんと歩く木の本巡り;;北部は、初めてで、興味津津~古墳群(3個)「車駕之古シ」古墳は、金の勾玉が出土したので、開発から救われ、保存^^
    今日は,市立博物館に、現物を見に行ったら,1.8cm;;
    細工が、細かく輝いていました^^
    昔の庄屋~さんの家,煙出しの屋根、築地塀;;
    ビタミンの発見の高橋克己氏(32歳)で、早世
    有吉佐和子さんの生家蹟(何もないのが、残念)56歳で早世~
    惜しい偉人達;;凡人は長生きします~
    大年神社の石の謂われ^^^
    木之本神社の秋祭りの神輿が、見られ、発見の多いハイキング、実りありました^^
    ブログは、鋭い観察で再勉強でき,良かった^^
    2012年10月26日 18:31
  • やろい

    今晩は。
    住いする県内でも知らないところが多くあります。
    このような催しに参加することは好いことですね。
    再発見がありますもの!
    雑賀衆のことはよくお話に聞きます。
    布教使さんに和歌山の雑賀先生のお話を随分前にお聞きしたことあります。
    多分雑賀衆にかかわりのあることなのでしょう。
    有吉佐和子の母の生家・・・あれだけ和歌山のことを世に知らせえくださったのに、
    跡地は分譲ですか?
    ちょっと驚きです!。こんなところ何故税金が使われなかったのでしょうね。
    2012年10月26日 22:32
  • 若山

    翔女さんコメント有り難うございます。
    地元の事は判っている積もりでも、何も判っていない・・・・それを認識させられるウォークとなってしまいました。
    天候も良し、相棒も良し、コースも語りも良し、良いこと尽くしのウォーキングでした。只一つ残念なるは有吉佐和子氏の功績を称える標が無かったことが気懸かりです。
    このウォーキング開催を切っ掛けに説明板くらい設置する動きが出れば嬉しいのですが・・・・・呼びかけたいですね。
    2012年10月27日 20:24
  • 若山

    やろいさん今晩は~何時もコメント有り難うございます。
    歳を重ねても知らないことばかりお恥ずかしい・・・・・ウォーキングに参加し、ブログ作成のために道程を振り返り、資料を復習し図書を捲るは頭の体操にしては些かキツ~ウございますが、ボチボチと続けたいと頑張っています。
    応援よろしくお願い致します・・・・・

    知らなければそのまま、知ってしまえば何故?と思わず首を傾げたくなりますが、有吉佐和子氏の記念碑位は有っても良さそうなものですね。無いことに驚きです。和歌山市民としてお恥ずかしい次第です(笑)
    2012年10月27日 20:38
  • セラ吉

    若山さん、こんばんは。すばらしい紀行文にして頂きました。
    ありがとうございます。当初の予定が少し早くなり
    案内できずに失礼をいたしました。
    500㍍離れた我が家で一幅といきたかったですね。
    ウォークでは珍しく好天に恵まれ、多くのお客さんに
    喜んでいただきました。我々も微力ながら
    「有吉 佐和子」さんの碑の建設に努力したいです。
    これからもよろしくお願いします。
    2012年10月29日 20:44
  • 若山

    セラ吉さん今晩は
    は~い、当日師匠にお会いできなかったことは残念でした。木ノ本ウォークの企画は、満塁ホームランです。聞くところに寄ると、真夏の暑い盛りに現地視察でご苦労したとのこと、この様なご苦労があればこそ素晴らしい行事となった事に感謝です。
    有吉佐和子顕彰についてもご尽力よろしくお願い致します。微力も何もありませんが、署名運動ぐらいはご協力出来ます・・・・・
    2012年10月30日 20:14
  • はるちゅん

    こんにちは。
    華岡青州の「せい」は、「青」ですよ。
    それと、獅子舞で投げているのは、おひねりといいます。
    子獅子のときに、お金をつつんで投げるんですよ。
    またよかったら、見に来て下さい。
    2014年10月19日 10:56
  • 若山

    はるちゅんさんご教示ありがとうです。
    獅子舞で投げていたのは「おひねり」でしたか、どう見ても色模様のフィルムに包まれた飴玉に見えたものですから・・・・・
    当日、時間の都合で境内で披露される獅子舞を見ることが出来ませんでした。一度は見たいと思っています。
    2014年10月19日 12:17

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