気儘に歩く~ 11月の記憶 南海沿線「蛸地藏駅~泉佐野駅」を歩く (其の1)
2020.11.24 (火曜日) 晴れ
新型コロナウイルスの脅威衰えず。恐れ・悩みは尽きないが「わいず倶楽部・和歌山交流会」ウオーキング催行の下検分をしましょう!との発案。このご時世、電車に乗るは些か抵抗あるも、一緒に行きましょう!と声を掛けられれば断る術を知らないドンノリの吾輩。参加致しますと返事をして後悔する破目に・・・あぁ~ぁでも当日ともなれば少し早起き!お出掛け致します。
マスク着用・密を避け、歩いて来ました総勢5名。
和歌山市駅発8:11 蛸地藏駅着8:55
本日の行程は、岸和田市・岸和田城(写真上)及びその周辺を散策。紀州街道沿いの街並みを拝見しながら南に下り4号湾岸線高架下、大阪臨海線の側道を貝塚市へ。二色の浜公園にて昼食を摂り。泉佐野市・佐野漁港経由泉佐野駅へと向かう。歩行距離:約11km・所要約6時間。
歩き始めは、南海本線「蛸地藏駅」
1925年(大正14年)建造の南欧風の駅舎。壁には、戦国時代・岸和田城を敵の侵攻から守ったと伝えられる「蛸地藏縁起絵巻」のワンシーンを模したステンドグラスが面白い。是非ご覧あれ!(写真下)。


9:00 駅舎を出て線路沿いを岸和田城へ向かう。突き当りを左折すれば、9:04前方に岸和田城、左手前に立派な庭園が見える。旧寺田財閥当主家別邸の回遊式日本庭園。現在は料亭「がんこ岸和田五風荘」となっている。門前より内部を眺めスルー。
岸和田城(猪伏山・千亀利(契り)城、)へと進む。はい~残念!天守開門は、午前10時。到着は早過ぎました。内部見学は諦め、昭和初期の日本の作庭家「重森 三玲・しげもり みれい」に依る。三国志・諸葛 孔明の天陣・地陣・雲陣・・等八陣法をモチーフにした枯山水庭園(写真下)を眺めて街中散策と致します。
9:38 二の丸公園を抜けて自泉会館へ、昭和7年(1932)寺田 甚吉(元岸和田市長・元南海電鉄社長)が岸和田紡績創始者、父寺田 甚興茂の偉業を記念して建てたスペイン風モダン建築。(写真下)
岸和田紡績や甚吉の関連会社の社交場として使われていたが昭和18年(1943)岸和田市に寄贈された国の有形文化財。胸像は寺田 甚興茂(てらだ じんよも)氏。
9:47 市立中央小学校の通学路を抜けて「欄干橋」上に立つ。どう見ても川の存在が不明な「古城川」に架かる石橋なり。昔は、この地域の道路元標とされ他の地域からの距離を表す目印となっていたという。
橋の名の由来は定かでない。元禄・享保年間の紀行文には「擬宝珠橋」。天保年間の地図には「欄干橋」、文化・文政年間の文書には「魚屋町橋」と記録されているという。
9:53 欄干橋より折り返し、大通り「岸和田港塔原線」を横切り紀州街道を歩く。平成7年に開設された「きしわだ自然資料館」。建物は昭和初期に建築された旧寺田銀行の外観をモチーフにしたものという。(写真下)動物の剥製や岸和田の動植物の標本など展示されているという。
9:57 街並みを眺めながら街道を進むと、「左こなから坂」・「右紀州街道」と記す石柱を見る。
「こなから坂」は岸和田だんじり祭りの宮入(岸城神社・岸和田城鎮守神)直前の見せ場という。
案内板を読むと、紀州街道とは大阪高麗橋から住吉・堺・岸和田城下を通り和歌山に至る街道。近世以前は熊野古道が主要幹線道路であったが、海沿いの町が発展するにつれ慶長7年(1602)頃に、主要街道ではなく沿岸部を結ぶ補助的街道として成立した。
江戸初期、紀州徳川家は大和街道を通り伊勢・松坂を経由して参勤交代を行っていた。しかし、第6代宗直以降は、家柄に見合う道中行列の偉業を示す事を目的に紀州街道を通り大阪・京・東海道を抜けて江戸に向かう道程に改めたという。
10:00 格子窓・漆喰壁・虫駕籠窓の屋並みを眺め楽しむ。街並みの景色に溶け込んだ円成寺(真宗大谷派)門前を見上げる。

見事な飾り瓦。牡丹でしょうね・・・・・
10:04 はい~此処が薬局?・・・・・何だか入り難い店構え!でも、入って見たい!内部の様子に興味津々なるも入るの止そう。
まちづくり館(地元住民の集会所・観光客の休憩所)で小休止。お向こうの?吉田松陰の逗留地(岸和田藩士達が煎餅を齧りながら明日の日本を議論したという)ここは見逃しました。
10:15 紀州街道本町一里塚跡(一里塚弁財天)
一里塚とは・・・・江戸幕府の命により慶長9年(1604)江戸日本橋を五街道の基点として36町歩を一里と定め、一里毎(3.927Km)に塚を築造し榎・松等の樹木を植えさせたのが始まりという。
10:20 蛸地藏天性寺
案内板に依ると元亀元年(1570)に建立。地蔵堂としては日本最大級の建物。伝承される蛸地藏縁起に依れば、本尊・地蔵菩薩は岸和田城の守本尊だったが戦乱を免れるために堀の中に入れられていた。
天正12年3月、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ落城寸前。数千の蛸と一緒に一人の法師が現れ城を救ったという。その数日後堀から矢傷・弾傷を負った地藏菩薩が発見された。
城を守った法師は地蔵菩薩の化身であった。菩薩は城中の別殿に安置されたが多くの人々が参拝出来る様にと、ここ天性寺に移された。その伝承に因んで蛸絵馬を奉納し蛸を絶って願を掛ける人もいるという。
岸和田と言えば、数年前連続テレビ小説「カーネーション」の舞台となった町。世界的デザイナーコシノ三姉妹の母親「小篠 綾子」をモデルとした物語を思い浮かべ。それとは別に、古い街並みに満喫、蛸伝説に頬を緩めて・・・・・・はい~ブログ作成は此処で一休み。後編(其の2)乞うご期待!!
新型コロナウイルスの脅威衰えず。恐れ・悩みは尽きないが「わいず倶楽部・和歌山交流会」ウオーキング催行の下検分をしましょう!との発案。このご時世、電車に乗るは些か抵抗あるも、一緒に行きましょう!と声を掛けられれば断る術を知らないドンノリの吾輩。参加致しますと返事をして後悔する破目に・・・あぁ~ぁでも当日ともなれば少し早起き!お出掛け致します。
マスク着用・密を避け、歩いて来ました総勢5名。
和歌山市駅発8:11 蛸地藏駅着8:55
本日の行程は、岸和田市・岸和田城(写真上)及びその周辺を散策。紀州街道沿いの街並みを拝見しながら南に下り4号湾岸線高架下、大阪臨海線の側道を貝塚市へ。二色の浜公園にて昼食を摂り。泉佐野市・佐野漁港経由泉佐野駅へと向かう。歩行距離:約11km・所要約6時間。
歩き始めは、南海本線「蛸地藏駅」
1925年(大正14年)建造の南欧風の駅舎。壁には、戦国時代・岸和田城を敵の侵攻から守ったと伝えられる「蛸地藏縁起絵巻」のワンシーンを模したステンドグラスが面白い。是非ご覧あれ!(写真下)。


9:00 駅舎を出て線路沿いを岸和田城へ向かう。突き当りを左折すれば、9:04前方に岸和田城、左手前に立派な庭園が見える。旧寺田財閥当主家別邸の回遊式日本庭園。現在は料亭「がんこ岸和田五風荘」となっている。門前より内部を眺めスルー。
岸和田城(猪伏山・千亀利(契り)城、)へと進む。はい~残念!天守開門は、午前10時。到着は早過ぎました。内部見学は諦め、昭和初期の日本の作庭家「重森 三玲・しげもり みれい」に依る。三国志・諸葛 孔明の天陣・地陣・雲陣・・等八陣法をモチーフにした枯山水庭園(写真下)を眺めて街中散策と致します。
9:38 二の丸公園を抜けて自泉会館へ、昭和7年(1932)寺田 甚吉(元岸和田市長・元南海電鉄社長)が岸和田紡績創始者、父寺田 甚興茂の偉業を記念して建てたスペイン風モダン建築。(写真下)
岸和田紡績や甚吉の関連会社の社交場として使われていたが昭和18年(1943)岸和田市に寄贈された国の有形文化財。胸像は寺田 甚興茂(てらだ じんよも)氏。
9:47 市立中央小学校の通学路を抜けて「欄干橋」上に立つ。どう見ても川の存在が不明な「古城川」に架かる石橋なり。昔は、この地域の道路元標とされ他の地域からの距離を表す目印となっていたという。
橋の名の由来は定かでない。元禄・享保年間の紀行文には「擬宝珠橋」。天保年間の地図には「欄干橋」、文化・文政年間の文書には「魚屋町橋」と記録されているという。
9:53 欄干橋より折り返し、大通り「岸和田港塔原線」を横切り紀州街道を歩く。平成7年に開設された「きしわだ自然資料館」。建物は昭和初期に建築された旧寺田銀行の外観をモチーフにしたものという。(写真下)動物の剥製や岸和田の動植物の標本など展示されているという。
9:57 街並みを眺めながら街道を進むと、「左こなから坂」・「右紀州街道」と記す石柱を見る。
「こなから坂」は岸和田だんじり祭りの宮入(岸城神社・岸和田城鎮守神)直前の見せ場という。
案内板を読むと、紀州街道とは大阪高麗橋から住吉・堺・岸和田城下を通り和歌山に至る街道。近世以前は熊野古道が主要幹線道路であったが、海沿いの町が発展するにつれ慶長7年(1602)頃に、主要街道ではなく沿岸部を結ぶ補助的街道として成立した。
江戸初期、紀州徳川家は大和街道を通り伊勢・松坂を経由して参勤交代を行っていた。しかし、第6代宗直以降は、家柄に見合う道中行列の偉業を示す事を目的に紀州街道を通り大阪・京・東海道を抜けて江戸に向かう道程に改めたという。
10:00 格子窓・漆喰壁・虫駕籠窓の屋並みを眺め楽しむ。街並みの景色に溶け込んだ円成寺(真宗大谷派)門前を見上げる。

見事な飾り瓦。牡丹でしょうね・・・・・
10:04 はい~此処が薬局?・・・・・何だか入り難い店構え!でも、入って見たい!内部の様子に興味津々なるも入るの止そう。
まちづくり館(地元住民の集会所・観光客の休憩所)で小休止。お向こうの?吉田松陰の逗留地(岸和田藩士達が煎餅を齧りながら明日の日本を議論したという)ここは見逃しました。
10:15 紀州街道本町一里塚跡(一里塚弁財天)
一里塚とは・・・・江戸幕府の命により慶長9年(1604)江戸日本橋を五街道の基点として36町歩を一里と定め、一里毎(3.927Km)に塚を築造し榎・松等の樹木を植えさせたのが始まりという。
10:20 蛸地藏天性寺
案内板に依ると元亀元年(1570)に建立。地蔵堂としては日本最大級の建物。伝承される蛸地藏縁起に依れば、本尊・地蔵菩薩は岸和田城の守本尊だったが戦乱を免れるために堀の中に入れられていた。
天正12年3月、岸和田城は根来・雑賀衆に攻められ落城寸前。数千の蛸と一緒に一人の法師が現れ城を救ったという。その数日後堀から矢傷・弾傷を負った地藏菩薩が発見された。
城を守った法師は地蔵菩薩の化身であった。菩薩は城中の別殿に安置されたが多くの人々が参拝出来る様にと、ここ天性寺に移された。その伝承に因んで蛸絵馬を奉納し蛸を絶って願を掛ける人もいるという。
岸和田と言えば、数年前連続テレビ小説「カーネーション」の舞台となった町。世界的デザイナーコシノ三姉妹の母親「小篠 綾子」をモデルとした物語を思い浮かべ。それとは別に、古い街並みに満喫、蛸伝説に頬を緩めて・・・・・・はい~ブログ作成は此処で一休み。後編(其の2)乞うご期待!!